2012年12月22日土曜日

長期連載 なぜ日本の政策は迷走するのか-経済とはなんだ編②

「パイが増えればうまくいく」こと以外に政治と投資が似ている点がもうひとつある。
どちらも、よりどころとするものに完全な理論が存在しないということだ。投資理論や証券分析などは、経済学の一分野として70年代以降急速に発展した。特に大型コンピュータ並みの演算がパソコンでできるようになった90年代以降は、複雑なシュミュレーションが低コストでできるようになった。経済学の末端において、とても投資理論とは言えないような株価予測モデルが次々と開発されては消えた。
人間のドロドロとした営みの結果である経済現象や、証券市場を合理的に説明するというのが難しそうなことは直感的にはお分かりいただけると思う。こうしたものに取り組む末端の投資家と大元にいる経済学者を一緒にするのもなんだが、追求しているものは一緒である。
経済学の始祖をアダムスミスだすると300年近く、経済学はその主張を華麗に変化させてきた。時代の変化、産業構造の変化、政治構造の変化、経済環境の変化に合わせ、その主張が突然180度変わることもあった。1回死んだ理論が不死鳥のように蘇ることもあった。
経済学も投資理論も第一歩は人間は合理的に行動すると仮定することから始まる。汎用性を高めるために、個別の人間は合理的ではないとしても社会全体・マーケット全体では合理的だとすることで理論は展開される。
このスタートライン自体相当危ういものだ。
最近では人間は状況によっては不合理な行動も行うという「行動経済学」というものまで登場している。
結局、物理学のような「普遍の定理」がないというのが経済学の最大の特徴なのだ。従って常に怪しげな教祖が登場する余地がある。説明力を失うと簡単に捨てられる。名を残した経済学者はその時代においてより真実に近い理論を展開しただけに過ぎない。
「情報は瞬時に反映される」「過去の統計的に処理した関係は将来も成立する」「金利で割り引いたり引き伸ばしたりすれば将来のお金も現在のお金も等しく比較できる」などなど、現在の事象を説明し将来を予測するために実に様々な前提が置かれる。
特に個別具体的な現象や特殊な現象を説明しようとすればするほど、前提条件は無理筋になる。
Aならば常にB。Bならば常にCというような理屈ではいかないのだ。AならばBかもしれない。BならばCかもしれない。だからAは多分Cなのだ。というのが経済学だ。
従って、経済学や投資理論が前提にしている条件が何であるかを正しく理解しないと、それだけを信じ込んで大きな意思決定を行うといつかは大きな落とし穴にはまる。権威のある経済学者も、マーケットの末端の片隅で株価予測モデルを開発しているオタクトレーダーも、同等に眉唾ものである可能性を持っているのだ。
今回はアベノミクスという政策が賛否両論分かれて大賑わいだ。
一般の方はこの現象をどう捉えればいいのだろうか。